天才ピアニスト・ランラン氏の衝撃的な育てられ方とは?

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最近、『蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)』という本の上下巻を読みました。
日本開催の国際ピアノコンクールに挑戦する参加者たちを描いた話で、直木賞と本屋大賞をダブルで受賞し、映画化もされた話題作です。

その小説で「ランラン」というピアニストの存在を知りました。現役で活躍中の中国人男性ピアニストです(その筋では元々超有名だと思いますが、私はクラシックに疎くて知りませんでした)


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日本では映画「のだめカンタービレ」の吹き替え演奏をしたことでより有名になったみたいですね。


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ランランさんがピアノを弾く動画を観てみたのですが、技術も表現力も素晴らしくて、ど素人の私でもこの人は天才だと分かりました。特にリストのラ・カンパネラの演奏はもともと難しい曲なので技術の高さがよく分かり、強弱をつけた個性的な演奏が素敵でした。

(原曲を忠実に弾いている辻井伸行さんの演奏と比較すると、ランランさんの個性が分かりやすいと思います。どちらが好きか意見が分かれそうです)

ちなみにランランさんは2017年に病気(左手の腱鞘炎)を患い、1年3ヵ月の間表舞台から離れていたこともあるそうですが、現在は復帰して活躍されています。

「こんな天才ピアニストってどんな教育を受けてきたんだろう?」と興味を持った私は、彼の自伝『奇跡のピアニスト郎朗(ラン・ラン)自伝―一歩ずつ進めば夢はかなう』を読んでみました。

すると予想をはるかに上回る「衝撃的な育てられ方」をしていたので、ご紹介したいと思います。

ちなみに↓の動画は公式YouTubeにアップされている、ランランさんが12歳の時の演奏です。良かったらご覧ください。12歳って日本だとまだ小学生くらいですが、ものすごい技術ですね。

天才ピアニスト・ランランさんの衝撃的な育てられ方

ランランさんの衝撃的な育てられ方が分かるエピソードをいくつかご紹介します。

・父親は二胡奏者を目指していたが、文化大革命の影響などで夢が絶たれた。

二胡=弦が二本のバイオリンのような弦楽器。中国の伝統楽器として人気。

母親も舞台に立つ芸術家になりたかったが、文化大革命で農場へ送られた。

両親は文化大革命で絶たれた「自分たちの音楽に対する夢」を一人息子ランランに託した。
父親はランランが4歳の頃から「ランランは中国で一番のピアニスト、そして世界一のピアニストにならなければいけない」と言っていた。

<管理人コメント>
文化大革命で叶えられなかった両親の思いを一人っ子が一身に背負うのって大変ですね…。この時代の中国では似た話がよくあったらしいですが。

ちなみに今でも中国はものすごい競争社会で、どの分野でも才能のある子は早くから磨き上げられ、1番であること、オーディションなどに勝って勝って勝ち続けることが求められるそうです。


・7歳の頃、コンクールで上位を狙える腕前であったのに、使っていたピアノはペダルや鍵盤が壊れていた。

<管理人コメント>
ピアニストってお金持ちのイメージがありますけど、ランランさんは違ったんですね。
フジコ・ヘミングさんもそうですが、苦労している分、人の心を打つ演奏ができるようになったのかもしれませんね。


練習しろと言ったのに従わなかったからと父親におもちゃを全部投げ捨てて壊されたことがある。
具体的な状況としては、2時間練習した後、練習を中断して母親と大事な話をしていたら、父親がすぐに練習を再開しろと言った。
それに息子ランランが従わなかったので、父親は息子のおもちゃ(大好きなトランスフォーマー)を全て部屋の窓から投げ捨てて壊したそうです。

<管理人コメント>
息子の気持ちや状況について完全無視でびっくりです。このお父さんはかなり極端な方かもしれませんが、中国には「親や年長者には逆ってはいけない」という昔の日本のような空気があるらしいです。

後にランランさんはアメリカ留学をして子の意思を尊重するアメリカ的考えに触れ、父親に小さな反抗をするようになったようなのでほっとしました。

両親は貧しい暮らしの中で、自分たちの持てる物全てを息子ランランにつぎ込んだ。
父親は息子のサポートに専念するため仕事を辞め、ランランが9歳の時北京にランランと2人で移住した。
母親は彼らと離れて仕事のある地元で暮らし、彼らに送金した。

<管理人コメント>
子どもの才能を伸ばすため故郷を離れる場合、母親が子どもに同行、父親は残って仕事をして送金する家庭が多いかと思います(妻子を留学させて自国に残る韓国の「雁パパ」が有名ですね)。
しかし、ランランさんの家は父親の方がピアノ教育に熱心であったためこのような形になったようです。

9歳と言えばまだ母親が恋しい頃ですよね。しかも母親の方が父親よりもランランさんに対して大分甘かったようなので、ランランさんは母親との別れがさぞ辛かったことと思います。その後も、母親に会うと甘やかされて弱くなるからという理由で旧正月などにもなかなか会わせてもらえなかったようです。母親とは結局7年間離れて暮らしたそうです。


・音楽学院に入学するために引っ越した北京では、故郷よりさらに暮らしが貧しく練習環境も悪くなった。
暖房のないボロアパートに住み、ピアノの練習音も近隣に筒抜けという状態。近隣住民に「いますぐやめないと殺すぞ!」「両手をへし折ってやる!」などと怒鳴られながらもピアノを練習していたが、警察を呼ばれたこともあった。父親は料理ができなかったためまともな料理も食べられなかった。

<管理人コメント>
正直、まともに生活できない貧しい状況なのにピアノなんて弾いている場合じゃないって感じですよね。それでも高額なレッスン料を払ってピアノの練習は続けたそうです。


1日に8時間~9時間、時には10時間も練習した。

<管理人コメント>
10時間の練習については9歳頃のエピソードだと思いますが、ランランさんは小さい頃から大量の練習をこなしていました。園児の頃にテープレコーダーを買ってもらい、親の不在中もテープレコーダーをまわしてちゃんと練習していたか父親が分かるようにしていたそうです。

そういえば天才ゴルフ少女として有名な日本の須藤弥勒ちゃんも、1日10時間くらい練習していると聞いたことがあります。弥勒ちゃんもパパが付きっきりで練習させているのが似ていますね。

上に行くには、ある程度の練習量が必要なことは確かですが、やらせ過ぎてしまっては心身を蝕んで逆効果な気もします。


ピアニストとしての道が閉ざされそうになった時、父親に本気で殺されかけた

北京で最初に師事したピアノの先生がランランの才能を理解せず、まともな指導もしないで破門にしたすぐ後のことです。

ピアニストとしての道が閉ざされたと感じた父親は、ランランに「薬(強い抗生物質30錠)を飲んで死ね、それから自分も死ぬ、薬を飲まないならバルコニーから飛び降りて死ね」と迫ったそうです。

<管理人コメント>
これが一番衝撃のエピソードです。これは完全に親としてアウトですね。父親は毒親であり、やっていることは100%虐待です。
ピアノの先生からも酷い仕打ちを受けたのに、さらに父親にもこんなことを言われてランランさんは絶望したことと思います。この後数か月(4か月程度)ランランさんはピアノから離れたそうです。いくらピアノが好きでも、ピアノを弾くと父親を喜ばせることになるのでやりたくないですよね。

そんな酷い状況でもランランさんが成功したのはなぜ?

父親の態度は虐待レベルだったので、一歩間違えば彼の才能は潰れていてもおかしくなかったはずですが、それでもランランさんが成功できたのはなぜだったのでしょうか。私なりに考えてみたいと思います。

・ランランさんに本当に才能があったから

・ランランさん本人もピアノが好きで、野心があったから

・良心のある他の大人(先生や母親や市場のおじさんなど)が関わってくれたから

などの要素が大きいのかなと思います。

他にも、以下のような点がランランさんの成功に関わっていると思います。

・親が音楽好きであったため、音楽の早期教育を受けた。ランランさんは1歳になる前にラジオから流れるメロディを口ずさんだり、文字を覚える前に楽譜を読んだとのこと。
音楽の世界は早期教育が有利に働くことが多いと思われる。

・父親は息子に虐待レベルのことをしたが、献身的なサポートもした。息子がめまいを訴えたら3時間ぶっ続けで本で顔をあおいだり、寒い日は自分のコートも息子にかけたり、息子の指を血色が戻るまでさすったりした。

・父親の息子に対するサポートはピアノそのものに関してもすごかった。
父親はピアノについて自らも的確な批評ができるほどに詳しくなり、ランランにアドバイスを与えた。
時にはスパイのような活動もした。息子を入学させたい音楽学院に無断で入り込み、音楽学院の道や上級クラス担当の教授名、そこでの演奏曲や会話などの有意義な情報を手に入れてきた。

・アニメの音楽を扱ったシーンから良い影響を受けた。トムとジェリーの「ピアノ・コンサート」や(The Music Kingdom)音楽王国というアニメなど。
他にも西遊記やドラゴンボールZの孫悟空、トランスフォーマーなどから得たインスピレーションを曲を弾く際に盛り込んだりもした。


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・親が息子の成長に合わせて良い教師や良い環境を選んだ。

最初は父親が2年間ペダル・オルガンを学んで息子にピアノを教えていたが、息子が4歳の時「自分では教えるのに限界がある。息子に最高の先生をつけたい」と考え、その時に住んでいた瀋陽で一番のピアノの先生につけた。その後も常に良い先生、良い環境を求めた。(孟母三遷のように、瀋陽→北京→アメリカへのフィラデルフィアと移住した)

・アメリカに行くという決断がキャリアにとても役に立った。

アメリカの先生は、ピアニストとしての良い売り出し方を考えてくれた。
(コンクールで良い成績を残すのではなく、そういったものへの参加はやめて、誰かが病気になった際の代役として彼の演奏の素晴らしさを世間に知ってもらう方法。それにより彼は世界的に有名になった)

スラングやラップのリズムなどのアメリカ文化にも良い影響を受けた。

・アメリカでは教養(古典・演劇・政治など)を教えてくれる先生も紹介してもらえた。
様々な物に対する知識、理解を深めたことが彼のピアノ演奏に深みを与えた。

まとめ

ランランさんは動画などではとても気さくな印象です。
このような壮絶な幼少期を送っていたとは知りませんでした。

父親が彼を非常に厳しく育てたことが今の彼の成功の元であるかもしれませんが、もっと別の優しいやり方でも今の彼に辿りつけたんじゃないか、その方が良かったのにと思います。

ランランさんの最初のピアノの先生で人格者の方がこうおっしゃっています。
「ラン・ラン。才能のあるピアニストと幸せな少年としてのバランスをうまくとるのよ」

私も、もし自分の子どもに何か才能があると分かっても、この点を大事にしていきたいなと思います。
どれだけ偉大な息子を育てたとしても、ランランさんの父親はやっぱりやり過ぎ、ですよね?